四街道

映画 ゲーム アイドル

The Last of Us Part II

先日やっとこさクリアしました。

まず感想として物語に引き込まれたし、パート2も綺麗に着地したと思う。

賛否両論ある続編ですが率直な感想として『The Last of Us Part II』に肯定的です。

言葉に表しづらい顔の表情はさらに洗練され、俳優より俳優しているリアルすぎる表情を生み出せてしまっているから劇中で起こるキャラクター達の感情や機微を必要以上に説明しなくていい。

映画を観てて深く考察できるわけではないけど、キャラクターの感情を読み解かなければ問いを生み出すことができないという映画的で引き込まれたし他のゲームとは一歩ニ歩も時代の先に行ってるなと思わされました。

好みの分かれる作品だろうな思いながらもクリア後にレビューサイトを覗いて批判レビューで荒れに荒れまくっていて驚きました。

 

復讐がテーマであると聞いた時からジョエルが死ぬんだろうなと薄々思っていましたが、序盤に呆気なく撲殺されたことによってエリーとプレイヤーの怒りはリンクし、強い復讐心をプレイヤーに持たせることができた、そして物語に引き込まれた。

新規IPであれば「お前を殺す」という感情は湧かなかっただろうし、今作に登場するディーナでも同じほどの復讐心は与えられないと思います。崩壊した世界で生きる事の残酷さ、目を背けたくなるほどのリアルな描写や前作の主人公すらも英雄的に死なせないという『The Last of Us』の残酷な世界のリアルさを表現したと思う。

The Last of Us』の続編であるからこそ復讐のテーマを描く意味があった。

 

前作は抗体を持つエリーと人類の希望の為に困難を乗り越え、孤独だった二人は実の親子のような関係へと絆を深めていく、心を閉ざしていたジョエルが人類の究極の選択であろう「人類かひとりの命」という選択に「ひとりの命」を選択をせざる得ない過程を描いた。

ワクチン開発の代償としてエリーの命を捧げなくてはならないと知らされ、プレイヤーとジョエルは人類を犠牲にしてもエリーを救いたいとシンクロしてしまう感情的な物語でしたが、ジョエルが最後に取った選択と嘘は光と闇を垣間見えるものでした。

エリーを救ったことは父親であれば当然ですが、人類の視点から見ればジョエルの選択は不合理で文明を再建する希望を絶った行為である。

そして今作は闇側の視点であり、ジョエルがエリー救うために選んだことによって生まれた嘘の代償と責任、前作のアンチテーゼとなっている。

 

アビー編

物語の冒頭にジョエルが殺害されるという衝撃的な展開に強い悲しみと憎しみの感情が溢れ、大切な人の命を奪ったキャラクターをプレイさせる嫌悪感を湧かない方がおかしい。

アビーはジョエルが殺した医者の娘と理由が明らかになり、復讐した事は支持出来ないがアビーの復讐の理由も理解できる。嫌悪感を感じていたアビーに対して相互理解することができた。

「私はもう闘わない」と復讐への後悔、最後には衰弱したアビーに序盤に感じていた「絶対ぶっ殺してやる」という復讐感情はなくなっていたし満身創痍でお互いを痛めつけ合う姿を見ていて「もうやめてくれよ...」という感情にすらなっていた。

復讐という狂気の怒りから解放されたが残ったのは虚しさ、復讐を果たしても罪悪感が残り心が晴れることはない。アビーは周囲との関係が拗れは始めた中でレブとヤーラという存在に出会う。アビーは二人に新たな光を見出しアビーの生きる意味を見つける。二人の子供達は前作のジョエルとエリーと同じ様な関係性でありアビーへの怒りの感情も次第に収まっていった部分でもある。

 

エリー編

エリーは免疫を持つ自分が今も生きている意味を探し、犠牲にならなかった事で失う命、生きた証を奪ったこと、ジョエルが選んだ利己的な選択を許せずにいる。

ジョエル

「もしも神様が、もう一度チャンスをくれたとしても、俺はきっと同じことをする」

エリー

「わかってる」

「多分、一生そのことは許せないと思う。でも許したいとは思っている」

ジョエル

「それでいい」

ジョエルとエリーの最後の会話は壊れかけた関係の修復でありジョエルが生きていれば関係の修復は出来ていたでしょう。

しかし最後までジョエルの罪を許してあげることが出来ないままジョエルはこの世を去ってしまい後悔だけが残る。

一度は諦めた復讐ですがPTSDに悩まされ怒り、悲しみ、喪失感とやり場のない複雑な感情を復讐を果たすことで克服できるだろうとエリーなりのケジメをつけに行く。

アビーを窒息させようとする瞬間、エリーの脳裏にギターを弾いているジョエルがフラッシュバックし大切な人を思い出し踏みとどまる、ジョエルと最後に交わした会話を思い出し、一生許せない相手であるアビーを許すことでジョエルを許すことに繋がると。

ジョエルの行為を許せないかったのはアビーだけでなくエリーも同じであり、嗜んでいたコーヒーと同じように高すぎた代償でした。

前作のテーマが「罪」ならば今作のテーマは「許し」で

人は“人”を許せるか

「一生そのことは許せないと思う、でも許したいとは思っている」

この許すことの感情をアビーに抱けるかが今作を肯定的になれる鍵であり今作を表す象徴的な言葉でしょう。

あつまれどうぶつの森

どうぶつの森GC,DS,Wii版をプレイしたことがあり、博物館コンプや住宅ローンの全額返金などやりこみ要素は全てクリアするほど過去作はやり込んだ。

プレイしたのも小学生の頃で思いで補正もあるかも知れない。

 

街の至る所に設置できるようになったアイテム、家や店の場所がランダムだった過去作とは違い、街のデザインを自分好みにデザイン出来るようになった。

自由度は過去作とは比べられないほど上がった。だが、このDIYという新要素(クラフト)、のせいで動物達の家が質素で彼らの個性が消滅した。

動物達の家の内装はDIYで作れる家具か自分がプレゼントした家具が無個性に置かれているだけなのだ。

住人のオリジナルの部屋にDIYやプレゼントした家具が飾られていたら変化があり面白い要素になっただろうが、島に引っ越してくる住人皆同じような部屋では面白さの欠片もない。

過去作とは違い、何百体といる動物達それぞれ違う内装を観賞でき楽しめる要素がなくなってしまった。

 

どうぶつの森の面白さであった核の部分、動物との会話の豊富さが楽しい要素でしたが、今作のあつまれどうぶつの森は会話のバリエーションが極端に少ない。

会話のバリエーションを過去作が10だとしたら今作は1にも満たない。

過去作は動物達の趣味、個人、多種多様な無駄話を聞けたのに、その無駄な部分がない。

それぞれの動物の姿が違うだけで喋る内容は他の住民と変わらず、RPGの決められた数個の台詞しか言わないNPCみたいで淡泊で会話の面白さがない。

例えば会話に困った時、天気の話をしろと言われるけど動物達は会話に困りその天気の話しかしてこない。天気の話しかしない会話なんて面白い訳がない。

人間社会と同じように動物社会も人間とのコミュニケーションを取らなくなったのだろうか。

 

自分のキャラクターの見た目や性別を後からでも変えれるようになり、多様性が増した。車椅子、性別制限を撤去、自己表現の選択肢の豊富さ、任天堂の多様性を重んじたゲーム開発は評価したいが、人間の多様性を重んじるあまり本来主役であった動物達の個性、多様性は失われてしまっているのではないだろうか。

 

魚釣りや虫取り、タヌキ商店での買い物、博物館、懐かしさと過去作と変わらないシステムは面白いし新要素のDIYもそれなりに楽しめている。

一番楽しみだった部分の完成度が10年以上前のゲームに進化するどころか退化し負けてしまっているのが非常に残念だ。

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け

終わり良ければ総て良し?

前作『最後のジェダイ』よりは優れている。(クソ低ハードル)前作とは違い保守展開の今作、旧作のファンなら涙腺を刺激される感動する場面もある。

物語は面白いわけでも面白くないわけでもない。アクションは退屈だったがひとつの作品として悪い映画ではなかった。三部作と物語の一貫性と整合性は取れていないし、ふたつの映画をひとつに合体させた感じで話を詰め込み過ぎだが、全ては前作が悪くあれこれ責め立てる気も熱もない。

 

さすが傑作は撮れないが無難な映画を撮らせたら右に出る者がいない天才JJエイブラムス。お疲れ様、よく頑張った!と称えられるべきだと思います。

前作『最後のジェダイ』の続きというネガティブ満載の状態でスタートし「ライアンジョンソン」が残したゴミの尻拭いとJJのファンサービスに溢れている。

ジェダイの武器には敬意を払え」とかライアンジョンソン煽りは笑った。

存在意義のないゴミ以下のゴミにすら失礼な前作『最後のジェダイ』の要素を上手く拾い上げ物語の風呂敷を広げあげ華麗に着地した。

物語の広げ方は雑だし強引であるが問題の軌道修正は監督として完璧にまで仕事したと感じる。我々ファンが前作で観たかった血縁や伏線を見事に見せ、スカイウォーカー家の完結まで描き切り、考えうる中で最善の完結編になったのではないだろうか。

 

観終わって思ったことは『スカイウォーカーの夜明け』でマイナスだった評価がゼロに戻っただけ。鑑賞中は血縁や伏線を前作でやってくれたら今作の物語をもう少しは面白い三部作と三作目になったんじゃないかと残念さと惜しい気持ちで一杯だった。

ライアンジョンソンを嫌いになってもスター・ウォーズは嫌いにならないでとファンへの接待が続くが『最後のジェダイ』の後に露骨にファンに媚びられても今更遅い。最初からJJが三部作全部監督していたらスター・ウォーズに冷めることはなかったと思う。それほど『最後のジェダイ』の罪のデカさを感じた。

ラストアクションの盛り上げや決着の陳腐さ。王道大集合は『エンドゲーム』の大集合と既視感を感じてイマイチ盛り上がれなかった。

三部作としての計画性のなさ。リレー方式で映画を撮るなら「ケヴィン・ファイギ」みたな舵取りする人間が居ないとダメだ。MCUと大差をつけられる完成度が段違いだ。

デス・ストランディング

コナミ騒動の後「小島秀夫」がゲーム業界から離れ映画、小説など別分野に行ってしますのではないかとゲームファンであれば誰もが彼の行動に注目していたと思う。

それほど世界のゲームファンに愛されているかは、戦争、内戦と現実的でありながらSF的要素も垣間見える物語。それに込められた意味を考察し感動、感銘を受けるメッセージが込められ『メタルギア シリーズ』、『スナッチャー』『ポリスノーツ』数々の名作を世に出したからだ。彼の作家性に素人には到底太刀打ちできない膨大な知識量は映画界や別業界に行っても才能を発揮するに違いない。どんな業界に行っても、もう一度私達を楽しませてくれる作品を創り上げてくれると思っていたが、私達を喜ばせるために小島秀夫はまたゲーム業界に戻ってきてくれた。騒動がありながら2016年に完全新規タイトルが発表され、三年の月日が経ち完成したのが『デス・ストランディング』だ。

ゲームは時代によって姿を変えてきた「体験」からスマホの筆頭で「暇つぶし」に変わり。無料と偽り課金というカラクリで騙され、期間限定やプレイヤーの自尊心を煽り搾取される娯楽に変わった。とてもゲームとは呼びたくないクオリティーが殆どだ。

「デス・ストランディング」は売上至上主義からは決して生まれない作品で一定の人には理解されなくても、突き抜けたものを作りたい。攻めた作品をAAAタイトルで挑戦するその姿勢にリスペクトを送りたい。

 

数時間プレイしてみた感想を書きなぐってく。 

新しいものに挑戦し続ける姿勢は『デス・ストランディング』でも変わらない。

「デス・ストランディング」の新しい挑戦とは。ゲームプレイの心臓となっているバランスをとりながら操作する移動だ。バランスを崩せば転落し、崩さぬように姿勢を制御する。本来ゲームでは移動することは面倒で退屈であり多くのゲームで「ファストトラベル」「自動移動」が用意されているほどだ。プレイヤーの邪魔になり、その苦痛な要素をゲームのギミックにし「デス・ストランディング」は「移動」を再定義させ「移動」の概念を覆し「移動」というものを如何に楽しませれるかに挑んでいる。「移動」に関しては今の所楽しくプレイ出来ているが後半までこの面白さが継続させれるのかはわからない。見渡す限り壮大な自然を肌で感じながら広大な映像美を俯瞰し、途中で諦めてしまっては頂上の景色は見えない。時間をかけ登攀、頂上に登ったからこそ感じるカタルシスをプレイヤーに与え達成感を味合わせる。この地道な山登りのように感じさせる地味なシステムに賛否を別ける部分でもある。

本作の重要な「繋がり」他の誰かが設置した梯子、クライミングロープなどが自身のゲームプレイにも反映され手付かずの未開の土地をプレイヤーは自分達の手で生活の基盤となるインフラ整備をゲーム内で充実させていく。TwitterFacebookなど現代社会は誰とでも簡単に繋がることができる。簡単だからこそ相手の気持ちを考えず、コミュニケーションという行為に疲弊し想像力の欠陥につながる。どういう意図で梯子やロープを設置したのかを想像し見ず知らずの誰かの存在を感じることができる。自分自身が置いたアイテムたちも同じように想像され、オンラインとシングルプレイの中間、ワンクッション置かれたコミュニケーションがとても気軽でいて「デス・ストランディング」に用意されたアイテムは想像力を湧きあがらせる面白いギミックになっている。手付かずの険しい自然を前にするインフラ整備、物資を届ける配達シュミレーションに想像力などに楽しさを見出せるかどうかで評価は変わる。

 

私が思う映画的なゲームと小島秀夫が描く映画的なゲーム。

小島秀夫自ら公言する「僕の体の70%は映画でできている」という言葉。

私が思うに小島秀夫という人物は映画を崇拝するあまり映画に囚われているようにも思える。ゲームは物語が良くてもゲームとして面白くなければならない。ふたつの要素を成功させなければ成らず難しく難易度が高い。「MGS4」のようにデス・ストランディングは数時間プレイしただけだけどカットシーン、ムービーシーンがとても多い。ゲームをプレイしたくて買っているのに映像を長々と観させられる時間に費やされる。物語が面白いつまらない抜きに「ゲームじゃなく小説や映画でいいんじゃないか?」と思わさせてしまう。名作映画といわれる映画はメッセージ性に優れ人々の心を射抜き掴んできた。小島秀夫が描くゲームはこのメッセージ性が優れ「MGS3」は「母性」のメッセージに「デス・ストランディング」は「繋がり」というメッセージに重心を置き映像を中心に物語が進み演出はとても映画的だ。

私が思う映画的なゲームとは『アンチャーテッド シリーズ』が一番映画的であり映画のアクションを追体験させてくれる作品は他にはないアンチャーテッドの映画的は映画でいう「マッドマックス 怒りのデスロード」「ゼロ・グラビティ」メッセージ性よりではなく体験型の娯楽作品。午後ロー、金曜ロードショーで見たことあるような定番キャラクター達が大迫力アクションの演出、謎解きに大冒険。操作中はどの場面を切り取っても映画のワンシーンのように感じるほどだ。ゲームをプレイしながらアクション映画の世界に入り込んでいる錯覚に陥る。ゲーム歴は長く様々なゲームをプレイしてきたと思うがアンチャーテッド以上にプレイする映画は私は知らない。

 

「見えてる場所には全て行くことができる」プレイ紹介動画で紹介されていた。

それなら空に見える月にも行けるのか?と期待を膨らませプレイヤーは様々な考察をしていると思う。

アメリカを舞台にしたゲームだがプレイしている最中は緑や川が流れているのに月面を探索してるように感じた。登場する乗り物は宇宙開発やSF作品で何処か見たことあるような。あることが起こると大地にクレーターが出現する。不思議と月を想像してしまうのは僕だけでしょうか。小島秀夫を知るほど小島秀夫にとってSF、宇宙は切っても切れない関係にある。宇宙空間で生存するには宇宙服はなくてはならな物であり。酸素の供給と二酸化炭素の除去を行う生命維持装置がなくては宇宙空間という生と死が隣り合わせの過酷な環境で生死に関わる重要な物を背中に背負っている。

人類が分断された世界を再び繋ぎなおすため「サム・ポーター・ブリッジズ」運ぶ物資も人類の生死に関わる物であり。物資の運搬中に“BT”という幽霊のような存在がプレイヤーの行く手を阻む。あの世と繋がっているBB(赤ん坊)と繋がることで見えるようになるBTが出現することで生と死が隣り合わせになる。サム・ポーター・ブリッシズ服装は小島秀夫が崇拝するSF映画の金字塔『2001年宇宙の旅』に登場した宇宙服のデザイン、配色の使い方に赤ん坊は意図してるのか偶然なのか。

「デス・ストランディング」はレビューサイトの評価は賛否両論で『2001年宇宙の旅』と同様に名作派と退屈派に別れ、ユーザーレビューはさらに物議を巻き起こす作品に間違いない。「デス・ストランディング」にとっては小さな一歩だが小島秀夫大にとっては大きな一歩になるのか。スタンリー・キューブリックが後世に遺した革命的な創造物に「デス・ストランディング」という“モノリス”に触れどんな体験を遺してくれるのか非常に楽しみだ。

エルカミーノ: ブレイキング・バッド THE MOVIE

私が悪いんだけど物語の内容や登場人物に忘れてるよね。本編始まる前に「これまでのブレイキング・バッド」の予告編が流れるのでシーズン1~5のドラマ全体の流れは思い出せるけどサブキャラとかは忘れてるし。そうだ!「ジェシー・ピンクマン」って監禁から解放されて話終わったんだと思い出すレベルで忘れていた。忘れてるならドラマ観返せよ思う人もいると思うけど一回観てるドラマをまたシーズン1~5また観返すのって苦行だ。

そんな私がドラマの内容を忘れてる話は置いておいて作品の面白さは可もなく不可もなく。放送から6年も経ってドラマ終了直後のジェシーの逃走劇を見せられる今更感半端なくないか?エピローグとして物語の完結としては良く出来てると思うが驚かせるような物語の仕掛けもなく盛り上がりに欠けるし当たり障りのない本編の邪魔にならないように作られたファン向けの映画にしか感じない。ドラマ熱が残ってる頃に追加エピソードとして放送されたら面白さの評価は大分違った気がする。

ジョーカー

 現代の社会問題を詰め込み何が一番の問題かを提示する。深い人間洞察はドキュメントにも感じるほど確かで今の時代性に完璧な映画。悲惨な描写から怒涛の展開の緩急の巧さ、コメディを撮れる監督はシリアスも巧い。

悲しくても突然笑いだしてしまう障害の男を役を演じたホアキン・フェニックスの演技が化物すぎる。「障害が原因で笑う」「空気を読んで笑う」「面白くて笑う」の笑い方の分け方が上手くて観てて度肝を抜かれた。

やっぱり比べてしまうのが『ダークナイト』でジョーカー役を演じたヒース・レジャー。ヒースが演じるジョーカーは相手をからかい狂乱状態を楽しむジョーカーの完成形に感じるけど彼の素性は明かされないし志向や行動が理解できないから感情移入はしない。ホアキン演じるジョーカーは素性が明かされ彼の生い立ち、暮らし、病気、に同情せざる得ない「社会的弱者」が描かれる。本来は「悪役」の狂気的で狂った悪のジョーカーに感情移入する。不思議と人を殺めたことさえも仕方ないと思えてしまう。

障害が原因で証券マンに電車内で絡まれ発砲する場面は他の映画だったら銃を取り出し証券マンを脅してから殺害したりとか展開がありそうだけどいきなり発砲する。いき場のない怒りが爆発した瞬間で突発的な行動は現実的でほんの一瞬で人一人の命が奪われる実際の発砲事件のような生々しさで銃社会の恐ろしさを感じる場面でした。彼が犯した罪は彼自身の責任になるのが社会だけど、彼をここまで狂わせたのは彼自身なのか彼を作り出してしまった他の何かなのか。

生中継での司会者殺害は爽快でジョーカーと一緒に狂気のボーダーを超えてしまう。

ジョーカーの魂の叫びは正論を超えた心理に思えてしまう。社会に馴染もうとする彼の姿を観ているから軽薄な説教や綺麗ごとを並べる司会者は正論だけど偽善にもみえ鬱病の人間に「がんばれ」、正論というなの言葉の暴力を浴びせる。綺麗ごとばかり並べて弱者の味方の振りをする搾取する側の司会者の射殺に私は拍手を送ってしまった。

社会に合わせようとした悲劇の過去と決別し、自分の意志で人生を歩みだす喜劇を歩みだしたジョーカーは爽快感すら感じる。人は心の底から笑うことで救われることがある、笑うことすら出来ない極限の極致にいたジョーカーは最後に心の底から笑えるようになっていたように感じる。全部ジョーカーの妄想だった?どこが本当で嘘なのか解釈は観客に全部委ねられているのも面白い。

13の理由

あらすじ

自殺してしまった高校生のハンナ・ベイカーの死が悼まれる中、同学年だったクレイ・ジェンセンのもとに宛先不明の箱が届く。箱の中にあったのは7個のカセットテープ。そこにはハンナが自殺に至った13の理由が録音されていた。

 

現代の日本でも問題になりつつあるネットリテラシーの崩壊「自殺・いじめ」をテーマに真っ向から向き会い。そんな十代の心をまっすぐに捉え、立ち直ろうとする若者たちの多種多様な姿を映しだしているドラマです。

配信されるや否や10~17歳のアメリカ人の自殺率が29.8%も増加したNetflixで配信されている「13の理由」、その理由から配信当初は、ハンナが自宅の風呂場で剃刀で手首を切り自殺する場面は現在では再編集された映像に差し替えられている。

シーズン1鑑賞後、自身も興味本位で削除された映像を観たが、淡々と醜く少女が苦しみ悶えながら死んでいく姿はリアルで自殺の痛ましさが描かれていた。自殺を美化しているとは感じないが、彼女の自殺が原因でハンナと関係のあるドラマの登場人物はハンナに人生を支配される。思春期の不安定な時期や精神が弱っていたりハンナと同じような境遇で自殺を選択してしまう人には「死んだら皆、自分を思い出す」とか違う見え方に見えるのかも知れない。この作品に背中を押されハンナと同じ選択を選び「13の理由」が批判されてしまうのは否定できないけど一線を越えてしまう人ってこの作品以外でも環境や何かをきっかけに一線を超えてしまうと思う。

私も虚無感や人間関係が原因で死にたいと思ったことがあるし、死にたいと思ったことがある人間は少なくないと思う。死にたいと思っても恐怖や冷静になって留まる人が殆どだと思う。本当に死を選ぶ人って恐怖を抱えていてもその一線を越えてしまう。

ドミノ倒しのように訪れる負の連鎖に「私はもう死ぬしかない」という視野の狭い選択しか解決策がない。冷静に客観的に判断ができない状態だから自殺を選択してしまう。

勇気を出して「助けて」と打ち明けれたら、彼女に寄り添い彼女の気持ちに気付くことができていたら。ハンナは助けてほしいと自分の思いを遠回しに告げるけど決して「助けて」と言葉にはしない。誰かに気づいてほしいけど自分からは言えない。そばにいて、助けてと周りに助けを求める行為って恥ずかしい事でも悪い事でもないけど言葉にできない。辛くて苦しいと考えているうちに冷静に考えられなくなる。助けを求める相手を間違えたら。自分の胸の内を明けて拒絶や否定されたら。助けを求める側も様々な葛藤がある。

私は小学生の頃に吃音症が原因で言葉の教室に通い発音練習など支援を受けていました。支援と言っても堅苦しいものではなく吃音に伴う発音への不安や緊張を緩和するための会話やレクリエーションがメインで、昨日何食べたとか何して遊んだとかコミュニケーションが殆どで訓練しているかどうかわからないような感じでした。

周りからの虐めや偏見もなく小学校を卒業する頃には喋りに苦労することはなくなっていた。当時スムーズに喋ることができず周りの子供とは喋り方が違う原因で虐められていたら環境が違っていたら現在も吃音に悩まされハンナと同じように死を選び自殺に至ったひとつの理由になっていたかも知れない。他者の気持ちを完全に理解することは絶対に無理、だからこそ日々のコミュニケーション、サポートすること、助けを求めることの重要性。

でもどんなに理不尽なことがあっても結局は本人とその周り次第で「最終的には本人が決めたことだから」「戦う気がないなら、泣き寝入りするしかない」のが現代社会の考えで悲しく難しいところですね。